記念碑の建立を断念し、ホームページの開設に至った経緯

実は、去年2012年12月7日の事でしたが、ケアに通っております「有人」の朝礼の時、担当の方が「明日は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の日です」とお話がありました。
その後、私が「私達の高瀬小学校の仲の良かった同級生が17歳の最年少で真珠湾攻撃に参加し、19才でソロモン沖海戦で壮烈な戦死をしております」と話しました。(岡田正二は昭和16年3月熊工機械科を卒業。その年の暮れに真珠湾攻撃が起こりました)
家に帰ってネットで検索しましたら、山川飛行兵曹と共に攻撃に搭乗していた「報国女子学生全日本号」の写真と共に同級生の中田勝蔵君の名前が出てきたではありませんか。
既に真珠湾攻撃から71年経過し、同級生も卆寿の年になり、生き残りは僅かとなりましたが、これは天啓であり、神様のお告げであろうと直感し、同級生の小篠雪雄君に会って、何とか歴史に残そうと言う事で話がまとまりました。
その翌日には、ハワイで生き残りの人達が2000人、真珠湾を忘れるなと会合を開いたと報道されました。
真珠湾攻撃に同乗していた山川飛行兵曹の真珠湾攻撃の記録で、今も当時の様子がハッキリと残っており、私達同級生の誇りとする所です。

■記念碑建立までの具体的な構想
 記念碑建立の原稿
 山川新作飛行兵曹著 真珠湾攻撃、中田一飛の活躍が記載
 真珠湾攻撃の時、山川飛行兵曹と搭乗していた「報国女子学生全日本号」の写真(実は、当時山川飛行兵曹と搭乗していた飛行機の写真と、中田勝蔵君の名前が71年過ぎても残っていたのに驚き感激致しました。碑を建てたいと思ったのはその時です)
 同級生一同の最後の記念に、弱冠17才で真珠湾攻撃に参加した中田君の碑を建てて一つの歴史を残すことが出来るならばと考えております。
山川飛行兵曹の記事をもとに、記念碑に記載したいと思います。
加えて、山川先生の没年等残したいと思います。
 碑を建てる場所は、市有地の公園をご提供して頂きたく、碑建立の暁には、碑は全て市に寄贈するつもりです。
市のご賛同が出来ませんでしたらこの計画は諦めます。宜しくご賢察賜りますよう伏してお願い申し上げます。

実は、私達同級生はもうすぐ90才になりますので何時まで生き残れるか時間が有りません。下記のように色々したい事はありますが、もう時間がありませんので、さしより碑の建立に専念したいと思います。
真珠湾攻撃の当事者も年を取ってしまいましたから、真珠湾攻撃の記念碑は日本で恐らく最初で最後と思おいます。
後年の歴史に残る仕事だと思います。
是非やり遂げたいですね。

以上、構想を練って参りましたが、2013年1月20日頃から体調を崩し、ケアも車椅子で行く始末です。
家族の反対もあり、息子岡田信之の助言もあり、又、記念碑建立まで身体が持たないのではないかと判断しました。
碑の建立は諦めて、インターネットで経緯をご報告致します。
有難うございました。

2013年1月28日
高瀬小学校11会 岡田正二